「大成地区だより」40周年特集号(1995年5月)から

このエントリーをはてなブックマークに追加

40周年特集号(1995年5月)からの転記です。

掲載記事一覧

次の記事が掲載されています。


 

 

40周年記念に寄せて

大成地区市民委員会 委員長 狩野清利

町内会組織の歴史をたどると、昭和15年、時の内務省が町内会の整備要項を示し、北海道庁ではこれに基づき町内会の規則を公布、国策の浸透と隣組団結をはかり経済生活の地域統制単位として町内会の結成を要請した。

運営の内部機構として総務・教化・産業・経済・警防・衛生・厚生・社会勤労奉仕・銃後奉公・経理・青年・婦人と各部を設け、5戸から10戸単位で隣組班を組織し学校通学区域を一単位として連合会も設けていた。
この当時は政府では大政翼賛会の協力会議を設けて、銃後奉公会のもとに、国とその地の行政、又、連合町内会その他各関係団体とが緊密な連携がはかられていた。

太平洋戦争が終って占領政策にもとづく諸制度の改革が行われ、ポツダム宣言の受諾と共に町内会、又、連合会等が政令公布によって廃止された。
その後は親睦団体としての町内会として存続され、昭和27年頃から明確な形としての住民組織の体形が整えられ町内会の復活がなされて来た。

大成地区も昭和30年当時、市議会議員であった前田重春氏を初代会長に大成区内各町内会との連携を深め、親睦を基礎に連合町内会が発足された。
当時は52町内会であったが17丁目も大成区に編入されてから61町内会となっている。

その後、親睦団体としての目的は勿論のこと旭川市民の一人として市政に対する自覚認識を深め 、吾々住民生活安定向上のためには市政に対しても意見・要望を反映させる直接民主主義の役割も含め、町内、又、地区発展のための自治精神の昂揚を図り、住み良い地域社会を作ろうと「旭川市住民組織研究会」を設置し、会議を通じて研究をまとめ市長に要望、昭和36年11地区(西・中央・大成・東・新旭川・北星・近文・春光西部・春光東部・神居・江丹別)をもって市民委員会と改称された。

その後、合併地区も加わり地区の再編と共に現在は地域区分、55地区となっている。
大成地区連合町内会より市民委員会へと発足当時から小生、又、板倉副委員長共々に、役員としてかかわりをもちながら、ここに40周年を迎え何か感慨無量なるものがあります。

昭和53年委員長に就任以来、ご町内の皆様を始め地区専門部役員、又、町内会長の皆様のご指導、ご尽力、又、ご協力により地区が益々生々発展し今日に到っていることに深く感謝を申し上げる次第であります。

菅原市長さんの誕生と共に平成7年度第1回の市議会に於いて市政方針が示されたが「市政は市民が割る」ことを念頭におき、まちづくりに対するさまざまな提言・意見を広くきく市政の基本理念を強調されておられ、又、各種重要事項の中で「総合保健福祉センター」(仮称)・「生涯学習センター」・「身体障害福祉センター」(仮称)等の建設があるが大成地区としては先年、日新小学校跡地について市民委員会より市に対して「旭川中央(シビック)センター」建設の要望書を提出したが、市理事者の当時の意向としては駅周辺開発並びに高架の問題等関連的な開発の青写真が出来てから日新小跡地の位置づけを考えたいと云うことで現在に到っているが、地域住民の中には「中央老人福祉センター」建設の声もあり、市長さんの課題である「総合保健福祉センター」の建設を要望していきたい。

当地区が隣接する駅周辺開発計画も市民や議会の意見を反映させながら旭川の都市機能を高める具体的な事業化計画の推進を期待している。

40周年の記念すべき年を迎え、長い間地区並びに町内会の自治振興発展に大きな貢献をされたその功績に対し、栄ある旭川市長表彰を受けられる役員の皆様に心から敬意とお祝いを中し上げます。この記念すべき年を契機に、市が提唱する新しい旭川の創造に向い健康で生き生きと暮らせるまちづくりに、さらに、豊かな自然と快適な生活環境のもとで潤いと魅力あふれるまちづくりに協力しながら、今後一層住民生活安定向上の為皆様と共に力を注ぎあいたいと思いますので皆様のご指導ご協力をお願い申し上げ四十周年記念の挨拶といたします。

掲載記事一覧にもどる

 

大成地区今昔の思い出

桑原 太己雄

大成地区の全域で、昔なつかいし建物が取り壊され大きなマンションや、新しいビルなどに変わり、また、建物が取り壊されたままで空地となり「ドーナツ化現象」となって大成地区の町内会会員数も毎年減少しています。

 △宮 前 地 区▽

 この地区は旭川駅が開業と同時に国営鉄道工場の鉄道用地として占めていた土地で、宗谷線の鉄道線路から忠別川までの広い地域です、構内には鉄道工場・検査区・車掌区・電力区などの検査工場と東信号所・保線・入れ替え操車場・ポイント切替え等の詰め所、国鉄病院診療所、国鉄社会人野球の球場と多くの施設がありました。

一番特筆されるものは当時「鉄道工場」途中から「国鉄工機部」として名声を博し、常に一千人以上の技術マンが職場として働いていた地域で、多くの商人や商社マンが引きも切らず出入りして繁昌したものです。

『蒸気機関車』から『デーゼル機関車』に変わり、縮小された用地を主に国鉄マンなどに払い下げられ、今でも国鉄OBなどが健在で住居をかまえ大成地区宮前西町内会と成りました。
宮前東の鉄道物資部「東ストアー」も最近まで残っていたが官舎の縮小とともに合同酒精の前に移転して営業は継続されて居ます。

 △宮 下 通 り▽

 この地域は国鉄を中心として、物流の根拠地、今の永山経済団地の前身と思えば間違い無い。
八丁目から延々とつながった石畳(上場)があり、入替線に並列で発送荷物の集積場が方面別に区分されて並び、総監督、貨物主任(赤線入帽子)が部下と組んで昼夜盗難防止で監視していました。
上場側にはマル通をはじめ、中央運送、その他、中、小の運送会社と上川倉庫や館脇倉庫群が並んでいた。現在もなごりの倉庫や建物が少し残っています。

大正から、昭和の初期まで、これらの荷物は全部馬車で運ばれていた。何十人という馬車追い等の詰め所(たまり場)となった馬のつなぎ場がありました。
昭和の7、8年頃から馬車が除々にトラック輸送に変わって来たが、馬は軍に徴用、トラックもガソリン欠乏で駄目になり、終戦後しばらくしてから再開されました。

戦前(大正~昭和初期)は大正木工場、大我口木工場、日の出木工場、大きな本工場と、三菱、第一石炭、里見売炭所などの多くの石炭屋と野積みの土場があり、灯油が家庭に入るまでは各家庭では石炭を暖房に使っていた。
その石炭を近郊の農家の方が農閑期のアルバイトとして働き、各会社や家庭に届けていました。
宮下通りは物流の根拠地として、石炭、精米、鮮魚、倉倉、木材、運輸等で繁栄をきわめた地域である、小檜山酒造も有名です。

 △1 条 通 り▽

 この地域は宮前、宮下と関連した流通の問屋街として繁栄した、大正から昭和期にかけて数多くの問屋街として鉄工、機械、貨物、繊維類の会社が多く、終戦後のヤミ時代には、ぞくに言う「カツギ屋」が多く出入りして、繊維関係の流通の基幹をなした。

石崎酒造や井内、川島醸造などの大きな倉庫群が並び、大門屋、キシイポンプ、伊藤金物、高桑金物、中小の鉄工場も多く繁昌、田村鉄工、伊藤鉄工、農産物の島岡、旭川肥料、岡本製菓の前身、岡本商店、古谷、松岡センイ、最近再び、センイ関係の商社が増大しています。

最近大きく変化したのは、国鉄北永山貨物ヤードの開設により、主な大手商社が競って永山の流通団地に移転などにより繁栄しました。つづいて国鉄ばなれの貨物輸送の激減でトラック輸送会社の松岡満運輸、旭興運輸、北興運輸、旭新運輸と佐川急便、クロネコヤマトなどの宅配便と変化して、輸送業界も大きく変化しました。

 △2 条 通 り▽

 この地域は明治、大正、昭和期と一番永くつづいた、家具、木工、建具の問屋街であった。
一部センイ問屋と混在して居るが、主力は家具、木工の通りであり、現在も結構繁昌して居るが、旭川が木工、家具の主力産業として位置づけ、木工団地も造成されて生産体制が大型化し、工場直販売に変わって来たため従来の「二条通り家具屋街」のイメージが大きく変りました。

家具の七条、菊池、大和、カネヒロなど、洋服では岡田、デンキのシグナス、呉服の尾形、ウィンドの森、金物の上西、村本金属、谷内商会、檜山鉄工など、色々の業種が混在して、昔と異なった形で結構繁昌して居るのが二条通りの姿でもあります。

 △3 条 通 り▽

 この地域の特長は、昔は11丁目が魚屋、魚市場の集結していたところだ、能登、中島、飯塚のカマボコ屋、13丁目角が旭一の前身、旭川魚菜セリ市場で賑わい、我孫子さんなど有名な鈎取りさんがいて、旭川の胃袋を賄っていた。

夏場は午前2時~3時頃から近郊近在の農家から馬車で農産物、野菜等を積んで来て、セリに出し、春のニシン時には威勢のよい掛声でセリが始まり、大西、五十嵐、西田、須田、高田等と、第一市場の近藤、加藤、などの大きな鮮魚店が繁昌して居る。
17丁目では「富士館」の映画館が最後まで市民を楽しませていました。

病院では笠茂病院、記念品と装飾の扇屋、末広屋、古越、お茶の松本園、古い時代、大正末期から昭和初期では11丁目に市営公設市場があり、旭川の主な店がテナントとして入店した。
当時の第一市場は今の「三番舘」や「くにい」より有名であった。

14丁目は鮮魚の小売店が軒を並べて深野をはじめ多くの鮮魚店が林立し、旭川を代表した生鮮三品が集結した地域です。
その後、三番舘が川瀬社長の努力で大きくなり、今の銀ビルのところには錦座が繁昌、松竹座になり台頭なし、15丁目のメッカであった。

三番舘のウラ側に大川屋の支店があり、終戦前後には徴用者の宿舎になった。
然しこの頃から今の銀座しあわせ広場の素質あり、第一市場の江尻食堂は鍋焼きうどんで有名であった。

懐かしい思い出、飲屋街も多く、寿司の竹ちゃん、ラーメンの蜂屋、松月の飲み屋もあった。
今も三好寿司、かん太郎、末ひろ、安らい等と数多くの店が市民を楽しませて繁盛しています。

 △4 条 通 り▽

 なんと言ってもこの通りはメーンストリートである。
昭和の初期に黒田岩吉氏の大英断で市内電車が架設され、1条1丁目から16丁目、4条1丁目から17丁目一力屋前そして八条通りの旧北都女学校前(現北都中学)まで電車が走っていました。

当時の交通機関は円太郎バスであったが、それに併せて電車が走り、4条17丁目が終点で、宗谷線のガードが無く、18丁目からは電気軌道の電車が東川、東旭川・旭山まで走り、バスが東神楽と永山、愛別、当麻と結び近郊近在と交通運輸の中心であった。
面白いのは、17丁目が、その年の学齢児童の多い少ないにより朝日地区になったり、大成地区になったりした。

行政区の異動がつづいたので、兄が朝日地区で弟が大成地区でも良くあった地域でした。
戦争が激しくなると、駅前から5条通り8丁目の9、10号は、火災を防ぐため、市が強制的に取り壊されました。

終戦になり海外から帰って来た方々が仮店舗『平和マーケット』をつくり、食料品や生活物資を商い営業していたが、昭和30年頃に強制退去が命じられて、その一部が17丁目に移転して営業を始め、オール商店街の基礎をつくりました。
鉄道が高架に成ることに成り、組合員全員で努力して、現在の商店街が形成されたのも特長である。

14丁目はきた代、江戸金、15丁目は川よし、旭楼、カフェーアカシヤ、中村屋、日の出屋、松月屋、カフェーフロリダ、小ざくら、この頃から出店したのが三好寿司です。
1円50銭持って夜遊びに出て、大黒屋で入浴、カフェー小ざくらで遊び15丁目まで脚をのばし夜おそくまで遊べたものである。
一番の憶い出は17丁目の一力屋前で出征兵士を送る旗の波で桑原太己雄も応召し皆さんに送られ、よくぞ今も元気で居られるのも不思議なくらいです。

4条は病院通りと変った、電車がなくなりマィカーが増えて病院通りと変化した。
然し、国道12号線として4条通りは幹線道路としての貫禄はたもたれて居る。

この通りは昔からオフィス官庁の混在地域であった、主な建物では旭川女子高(昔の縫製女子校)、旭川警察、商社では佐渡、岡島金物、今野ミシン、河端商店、脇坂仏具店、一力屋、高橋製菓、斉藤自転車店、一時岡本製菓の工場があったことがある。
交通の便が良くなると病院が増えた。

道新、北電、旭川ガスなどの大きな建物だけが目立つようになりました。
水質が良くきれいな地下水が通っていたものと思う。

野崎酒造を始め醸造の会社が多く、堀川、藤田醸造、後の旭油脂のところでした。
5条には北の誉、西倉酒造(西倉倉庫)もあって酒屋が繁昌したのも、水質の良い地域であったからです。

 △5 条 通 り▽

 この通りは寺街で金峰寺、錦織寺、中央地区には真久寺、大休寺、善光寺、慶誠寺、などの沢山のお寺がありました。
11丁目は市立図書館と旭川中税務署があり、13丁目は西倉さん、早勢自転車、北電の社宅、15丁目に北の誉酒造、中村呉服店があり、16丁目は北の誉の岡田さん、ヤマアサヒの今坂さん本宅、郵便局の高倉等あり、商店街らしい形成は余り無い地区だ。

17丁目は金峰寺と野崎さんの倉庫、今は日本清酒と塩の元売会社があり、昔のままの倉庫がそのまんまだ。
特筆されるのは「北の誉」の会社と工場の跡地に出来た「国際技術専門学校」のアメリカンスクールが校舎だけ出来たが、生徒が集まらないで空屋だ、親学校の4条17丁目がやっとバイオテクノロジーの学科でつないでいるが大変なようである。

 △6 条 通 り▽

 この地区は学校通りであった、旧旭川中学(今の東高校)がありヨーカドーのところが大成小学校、13丁目角が松岡源之助の本宅で、15丁目に来て消防番屋(昔は高い望楼が必ずあった)17丁目に米て一寸商店が並んで居た。
16丁目がヤマアサヒの醸造工場があった、大成小学校から野外写生でよくこの工場を写生したものである。

16丁目のヤマアサヒ跡地で岡田商店があり酒類卸をやって居たが、これもビル、マンションに変わった、稲垣外科医院のところも、産婦人科記念病院となり、岩隈病院もやめて、昔のなつかしい「ミドリ屋文房具」がツルハの支店となり、六条消防番屋が稲場土建の本社となった。
12丁目には田中成形合板があった。現在は吉川園。

 △7、8条通り▽

 この地域も一寸変わった地区であった。
隣が中央区で上川支庁あり、保健所あり、11丁目からは東高校と旭川気象測候所、12丁目は現在、開発建設部がある。13、4丁目は刑務所、裁判所があり、昭和43年頃、他に移転した。
跡地には中央、大成小学校が統合して知新小学校と旭川東税務署と大成公園に変わった。

コンビニストアー藤本さんの向いがそうであった。
16丁目に来て北都女学校(今の北都中学校)、17丁目に来て裁判所官舎があり、昔から最近まであったのが橋本砂糖問屋の倉庫。
13丁目の西宮さんの漬物工場も古い旧家だ。

14丁目は代書所や7条郵便局もあり、昔からつづけている。
日の出屋、五十嵐等の刑務所差入れの弁当屋もあり、どちらかと言えば、静かなオフィス官庁街の中心でもあった。

 △9、10条通り▽

 この地域の牛朱別川は自然の川でした。何本もの川が蛇行して流れ、雨が降ると川は氾濫して時々大きな水害になり、多くの被害がでました。
ロータリーから旭町までに橋が五つも架かってあったと記録されています。

昭和に入り川の切り替え工事をして、現在の堤防は昭和7年に完成し、同時に現在の旭橋も完成しました。
切り替え工事で出来た土地には刑務所の官舎や多くの住民が移住して出来た地域です。

一時法務局が使用した関係で代書屋さんが多くあった。その後転用されて、宝田学園女子商業学校となりました。近くに畠山建設がビルを建てたのが目立つくらいです。
13丁目で現存して居る大黒市場は、もっと古いものである。

堤防付近に来ると開発のガレージがあり、常盤中学校があり、児童相談所が新築して立派になったが、昔は「白雲荘」という結核療養所であった。
藤原製麺、ラーメンの片野さん、重原整骨院、カブトヤ薬局、古郷商店、内田商店、木戸口精肉店、宝屋スーパー、波寿司など昔より現在まで商店街を形成しているメンバーが大いに活躍して居る。

15丁目には島口家具の工場があった。
今後もたゆまぬ努力と研究を重ね地域の発展を希ってやまない次第である。

掲載記事一覧にもどる


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です