大成地区だより~ 30周年特集号(1985年5月)から ~

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「大成地区だより」の30周年特集号(1985年5月)からの転載です。

 

掲載記事一覧

30周年特集号(1985年5月)には、次の記事が掲載されています。

 


 

三番館の歴史
株式会社三番館 社長 大蔵業立

1 創設期
昭和7年、現相談役・川瀬善一を責任者とする川瀬呉服店が3条15丁目に当時木造三階建ての洋館に出店したのが、三番館の始まりです。
この年は、創業社長・川瀬善一、ヒデが結婚した年でもあり、この年は、旭川市においても旭橋完成の時期でもあり、発展の兆しが見えはじめた時期でした。
2 発展期
昭和38年、三番館は会社組織にすると共に現社長(娘婿)が入社し組織の近代化を図り、私企業から脱皮し、今日発展の基礎が定まりました。

3 転換期

昭和43年4月17日、正午近く仲通り側から出火した火災により、創業以来36年間で築き上げた延約500坪の城と億に近い商品が瓦礫の山と化してしまいました。
幸い昼火事でもあり、社員達の懸命な誘導で無事お客様を避難させることができ、一人の怪我人もありませんでした。

その後、川瀬社長を始め社員の斗志により多くの難関を突破し、復興の槌音が高く挙り仮店舗は開店し、好調に営業は推移しました。

4 躍進期

昭和43年5月25日現在の建物である地下1階地上3階建鉄筋コンクリートの建築が始まり10月1日新店舗が開店しました。
その後、昭和47年と50年、躍進を図りつつ増築を重ね現在の地盤を確立しました。昭和60年現在、年商50億円、従業員150名、地域に密着した店として皆様に可愛がられるお店をめざして躍進を続けております。

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古くて新しい5条通り
5条13会々長 大沢 俊男

幼い頃の思い出の大成区5条通りは、暗い通りの記憶しかない。
5条の通りは2丁目から6丁目まで、寺町。9丁目から11丁目まで軒並み医者町。13丁目から17丁目まで造り酒屋町。そして6条通りは学校と官庁街。7条から10条にかけて刑務所、裁判所と、なんとなく暗い町であったようだ。

そんな暗い通りも招魂祭と上川神社祭のお祭りは別だった。各戸の前に祭礼提灯が立ち、夜ともなればローソクに火が灯り、何とも云えない風情のなか、いそいそと見せ物小屋や夜店のある街へ繰り出して行ったものである。そして夏の気配を感じたものであった。

七夕には、近所の子供達は(今とは想像もつかない位、多勢の子供がいたものだ)手に手に七夕提灯をもち、ちょっと大きい子は缶詰の缶をくり抜いたカンテラにローソクを立て、各戸に「ローソク出せ出せ」と力一杯の声で叫んで歩いたことも、やはり暗い通りと明るい提灯のコントラストとなつかしく思い出される。

あの頃は街路樹が多かったように思う。私の家の前にもアカシヤが甘い香りをただよわせて、初夏を感じさせていたものだ。
然し何といっても、両側に並ぶしだれ柳の木である。歌に歌われた東京の銀座の柳は、詩情があったかも知れないが、この通りの柳は暗い街に相応した気がして何とも気味悪かった。その街路樹も今はなつかしい。

5条通りには緑が何時の間にか消えてしまった。祭礼の提灯も櫛の歯のように欠けていっている。土埃りの道もすっかり舗装されて、近代化した五条通りに変身してしまった。
一方通行の道には、ひっきりなしに自動車が通り、各町内毎に高層マンションが並ぶ。今は5条通りはデラックスマンション通りになってしまった。そしてやはり古い建物、私の向いに西倉倉庫が石造りのまま落首いたたたずまいをみせている。

占くて新しい通り、5条通り。これからはどのような街になるだろうか。

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3条通り町内会結成60周年祝典を終えて
3条通14丁目町内会 豊親会々長 幾島 作蔵

去る3月14日、私達町内会が結成されて60年、此れを祝福するため祝典を開催した。
今を去ること70年前、銀座通りが第二師団通りとして栄えた当時、大黒座(現銀ビル)と云う芝居小屋があり、非常設館のため興行の際ガス燈を高い棒の先に掲揚した。

こんな風趣を明治末期の14、5丁目の風物詩のーつとして当時を偲ぶ者の一人でもある。

道路に板戸を敷きバナナの叩き売り、紳士淑女が安くてうまい釣り鐘焼きを散歩しながらパクつく姿、一年掛りで出来秋の新米を馬ソリに積み上げ売り上げ代金(当時で百円位)を紅燈はなやかなりし頃の白首(ゴケ)衆(酌婦をゴケと云った)に一夜にして五寸足らずの若殿(男性のシンボル)に消費、馬だけが元気で絞り取られた青年は?今考えるとなつかしい事ばかり、そんな時代がやや続き、月移り時変り安定した昭和30年、連合町内会も市民委員会と名称を変え、組織に運営に変化し今日に至った。

亦と得難い委員長統率の元、実意と和合そして連帯の三本を柱として61町内会が結束し旭都に於て唯一無二の大成地区市民委員会、今後40年、50年と更に躍進、希望都市旭川にふさわしい委員会に成長する様願って止まぬ者である。私達60周年記念祝典を終えた感激を更に新たにし、大成地区市民委員会創立30周年記念祝典を成功させたいと心より念願している。

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銀座はこうして歩んできた
藤川 顕司

銀座通りと云えば、現在は殷賑を極め、平和通り買物公園についで、銀座しあわせ広場という自動車の交通をしめ出して、常時歩行者天国として今日の姿を示すようになった。
しかし、今日の銀座通りが形成される迄には決して一朝一タのことではなかった。多くの先人の苦労の結晶の上に立って、長い歴史の上の艱難辛苦の結果であることは言を挨たない。

この通りが、何時頃商店街として形作られて来たのかは詳らかではないが、明治25年に発行された「石狩国上川郡上田市街案内」という古い地図によれば、1条通りの1丁目から18丁目までと、2条通りの1丁目から13丁目まで570戸を抽せんで貸下げられこの部分が旭川市街地として大いに発達して行ったという。

その原因のーつとして、少くとも旭川の発展の素因を作ったのは、明治24年に最初の平民屯田兵400戸が永山に、翌年は東旭川、当麻に入植した屯田兵村と大きなかかわりがあったのは、史実に依っても明白なところである。
すなわち、旭川で一番最初に開けた曙から1・2条通りについて4条国道筋が開け出して、各兵村間との交易上、先に開けた18丁目、19丁目との中間に位置しているところからポツポツと各種の店舗が出来てきたというのが始まりであろう。

明治32年に第七師団の位置が近文原野(現在の自衛隊第二師団とその附近一帯)に決定され、4年間の工事を終えて第七師団が出来上った。

これより先、明治31年7月には現在の函館本線(当時の上川線)が全線開通し、旭川駅が開業、駅から現在の平和通り、旧称師団通りが最も賑やかになり、これに対応して明治40年代になって道路の掘さくを行って「新師団通り」が今の銀座通りから15丁目を牛朱別川に向い、日の出橋を渡って、真直ぐに伸びて石狩川に「秋月橋」を架橋して左へ析れると現在の国立道北病院、当時の陸軍衛戌病院、衛戌監獄と、師団施設に行き当る通りが完成された。

そのため、新旭川地区と交走することによって14・15丁目の通りは人や、物資の集散交流に幸いしたことも発展の素因の一つである。
繁華街が生長して行く要素として見落せないことのーつとして、明治42年に「大黒座」という芝居小屋が建設され、大正に入って7年には旭川最初の私設市場である第一市場が出現した。

大黒座は、大正9年改名して錦座となり、更に隣接して昭和元年に錦市場が誕生、このあたりは何時の頃か、錦座通りと呼ばれるようになった。
繁華街が出来ると、当然のように酒と女が登場してくる。そのための料飲店が多くなり路上には露店が立ちならび、他の地域と比較して、庶民的な安値さを売り物にした繁華街が形成されたのである。

なお、錦座は当時、旭川一の大劇場で廻り舞台の設備もあり桝席で観客の収容能力も大きかったので、大歌舞伎や活動写真をはじめ、当時人気絶頂の天勝によるマジックショーなど多彩な興行で人気を集めていた。
そのうえ、昔は今のように公会堂や公民館等がなかったため選挙の時は立会演説会やまた、各種の記念行事等にも広く利用されて、次第に繁華街としての姿を形づくってきたのである。

その錦座も経営上の問題から松竹に移り、その名も「松竹座」と改められ、自然、通りの通称も錦座通りから松竹座通りへと変っていった。
昭和8年12月8日、かねて通りの商店経営者によって結成されていた組合の手によって歩道の舗装が完成、鈴蘭灯の設置を行い、これを機会にこの通りを「銀座通り」と命名し、ここにはじめて銀座通りという名前が誕生したのである。

昭和21年1月、松竹座は火災により焼失してしまい、その後数年間は空地となって、その跡地は商店街主催の盆踊りの会場などに使用されていた。
昭和20年8月、敗戦を迎え世の中は大きく変っていった。

売春防止法の成立施行により酒と女の街としての銀座は消え、純然たる商店街として生れ変ることになった。
そして、松竹座の跡地には、本間興業の本間誠一社長の手により、地元有力者の支援を得て「銀映座」という映画常設館が開館、映画興行の盛んな時だっただけに、銀座通りに集まる人の数は増加の一途をたどるばかりであった。

しかし、テレビブームの到来とその急速な普及は、映画産業の衰微を招き、銀映座もやむなく廃館の憂き目を見ざるを得なくなっていった。
その銀映座を買い取り現在の銀座センタービルを建設したのは、現社長の安井一雄氏で、今から18年前の昭和42年9月のオープンである。

その後、三番館が木造の旧店舗から現在のビル店舗に建て替え、くにいが生れ、銀座通りは近代化へ向けて着々とその歩みを進めてきた。
昭和59年銀座通り商店街振興組合は結成20周年を迎え、盛大な記念式典が行われた。

この組合は、商店街振興組合法に基づく組合として、商店街の活性化を図り、下駄履きで買物のできる大衆化に徹した商店街づくりを基本にその集客力は市内随一を誇るほどに成長していった。

このたび(昭和60年)、30周年記念事業のーつとして「銀座今昔物語」(仮称)の編集が計画され、古くから銀座にゆかりを持つ人々十数名を招き、振興組合理事長である安井一雄氏を世話人代表として第一回編集懇談会が開催されたが、何分にも明治から大正初期にかけての頃では生存者も殆んどなく、文献、文書の入手も困難という状況であり、作業を進行に支障を来しているというのが実情である。

ちなみに、出版は銀ビル三階に所在し、振興組合員でもある市民の情報紙ニユーライナーを発行している株式会社旭川タイムスに依って行われることになっています。

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昭和初期から戦前・戦後の15丁目界隈
4の17会町内会長 桑原 太己雄

私は新潟県柏崎市から昭和2年3月に先代桑原弥太郎が勇躍夢多き北海道の地に骨を埋めるべく、一族郎党を引きつれ渡道し、3条12丁目右7号(現コハタ農薬跡)で郷里柏崎で祖父時代からやって居た「一力屋餅店」を開業したのが始まりであります。

翌、昭和3年11月現在地に移転、当時4条通りは国道を凌ぐメインストリートで、丁度店のあった所が「円太郎バス」の停留所で、昭和5年から市電4条線の終点、市街軌道㈱と電気軌道㈱(東旭川、東川)の乗継ぎ箇所として誠に殷賑をきわめたもので、現在もバスターミナル、宗谷線旭川4条駅とかたちは変化しましたが、オール商店街、15丁目しあわせ広場と一連のゾーンを形成し、当時の円太郎バス、戦後電車廃止、高架鉄路が出来て再びバスに戻りましたが大成地区の中心的役割をもった地域とされております。

15丁目界隈については、私も小学生当時であまり詳しく覚えていませんが、いわゆる「赤線区域」とか、第二組合(料飲店組合)とか云われて立派な料亭や飲屋さんが13丁目から17丁目まで軒を連ねて繁昌していました。

14丁目右仲通りには、気っぷのいい粋なマスターで評判だった「江戸金」さん、良く御用聞きに行っていた「きた代」さん、15丁目では、「川よし」「旭楼」「中村屋」、三条側では有名な「松月」さんがあり、真ん中にはさまって、カフェー「アカシヤ」さんがあり、当時有名な某土建屋社長さんがパトロンだったとか、「鍋屋」さん、「カフェー・フロリダ」などがあったと思います。

3条本通り15丁目に来ると「竹ちゃん寿司」の元祖、当時小学生だった私も竹ちゃんのママ、旭楼のお嬢さん(今の三好寿司のママさん)は皆んな同期生で、共にオジジ、オババになりました。 第一市場の真ん中あたりに「江尻食堂」があって、鍋焼きうどんが有名で先代弥太郎に連れられ、橇の後押しをして暮れの賃餅配達の帰りよく寄って父に「江尻食堂」の鍋焼きうどんを食べさせてもらうのが楽しみでした。

息子さんが同級生で、5条の錦識寺さんに入門、現在神居の十字街で西方寺住職として立派な一ヶ寺を創立、うどんのママも九十歳を超えて今でもお元気です。
16丁目に来ると「日の出屋」さんがあり、御主人がかの有名な前田重奏さんで市議を何期もつとめた方で、今の松浦さんや銀ビルの安井さんのように界隈の纏め役として、ボス的存在でした。

16丁目左10号、今の叡福寺さんのところにカフェー「小ざくら」さんがあり、ママが気っぶのいい、ヤング層(男性)にもてもてのママでした。
当時1円50銭懐に入れて、仕事が終ってから17丁目の大黒湯さんでメカシ「小ざくら」さんに乗り込んで大さわぎしても1円50銭で間に合った時代、今思えば夢のような良き時代でした。

その後、4の15右10の仲角に移られ、最近までお元気にスナックとたばこ屋さんをやっていたと思いますが、マスターが体格のよい鼻ヒゲの立派な方でした。
日の出屋さんは、のちに日の出旅館となり、麻雀荘となり、現在の御主人は私と同級生です。

さて、17丁目に忘れてならない「栄亭」さんがありました。テレビドラマに出てくる赤坂、六本木の女将にも負けないような立派なママがおり、マスターは布袋さんのような大物でした。今でも息子さんが現存しておられると思います。

三番館さんの横通りに「大川屋」さんの支店があり、戦中になってから国鉄の寮になり、平間調理部さんが平間会館として利用、その後三番館さんが増築して、今はその姿を見ることが出来ませんが、当時から変っていないのは「縄のれん」の水野会館さん、土開製粉、今野歯科さん、私の町内でも脇坂仏具店、高鍋組さん等、私も入れて大正から昭和にかけて六軒しかありません。 これが今昔ばなしになるでしょうか。

年移り、月変りとは云いながらも、僅か半世紀(50~60十年)の間の大きな変革、ビルが林立し、病院、商社が立並び、ところどころに点々として昔の面影が残っていますが、今も昔も変らないのは3~4の14~15から17丁目にかけての飲食街と商店街、根強い力が底流にあって市民に愛され、親しまれ今日あるものと思います。

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6条通りの思い出
6条17丁目寿緑会々長 長谷川 弘

大成地区の6条通りと云えば、大成小学校と跡地に出来たイトーヨーカ堂である。
大成小学校時代の思い出は、春季の運動会、中庭造り、プール造り等々沢山ある中で、交通面では昔と大きく変った。

41年に6条通りが舗装されてから急に交通量が増し、通学にも支障が出て、附近住民と学校側とで市長と警察署長に嘆願書を出した。
その結果、やっと一年がかりで6条15丁目に信号機が取り付けられた。

現在では、一町毎に信号機が付いているのは当然のようであるが、20年前は申請してもなかなか付けてもらえなかったのも時代の流れでしょうか。
時代の流れと云えば、中心街のドーナツ化現象が進み、69年の長き伝統ある大成小も45年廃校となり、46年秋、中央小と統合され裁判所跡地に知新小が新設された。

そうして、その後は大成小跡地をめぐって色々と問題が起きた。
地域住民は「縁の広場」に残してほしいという要望であり、市側は売却して中央小跡地の文化センターの資金にするという。

数年間、モメにモメて岩倉組に売却し、55年7月1日現在のヨーカ堂が出来たのである。
ヨーカ堂は、1万平方㍍(3千3百坪)の面積を持ち市内一のスーパーマーケットである。

また、一部横に大成住民センターができ、体育館もあり毎日のように利用しており老人センターもなかなかのにぎわいである。
2階には、小会議室があり、とても重宝である。これからも地域住民、商店街との共存共栄を願いたいものである。

大成小の名残りをとどめているのは、6条本通りの生徒通用門にあった二本の内地松である。
いつまでもいつまでも元気で育ってほしいものである。

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大成市民センターの建設経過
岩倉組 松浦 武夫

大成市民センターは体育館と市民会館になっており、市民のスポーツ並びにコミュニティの場として昭和55年6月30日旧大成小学校跡地に建設されました。
施設のあらましは、次のとおりです。

所 在 地 旭川市6条通14丁目(イトーヨーカ堂旭川店併設)
構   造 鉄骨、鉄筋コンクリート2階建
延床面積  2047㎡(1一階1440.94㎡ 2階606.94㎡)
主なる施設  体育館、会議室、いこいの家
着   工  昭和54年5月9日
竣   工  昭和55年6月30日
開   館  昭和55年8月1日

建設当時を振返って見ますと、都市化に伴って住宅は郊外に延び市の中心部の居住人口はとみに減少し、中央地区と共に大成地区もドーナツ現象化が進み児童学生の減少による既設校の統廃合が行われました。
大成小学校校舎の撤去後は市の中心部のエア・ポケット的空虚な環境であったことを思うとき、今とは覚醒の感があります。

大成市民センターは市の中心部ということもあってその後市民から大いに利用されております。

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大成地区の今、むかし
森    昇

昔の2条通りは道路幅も今と同じ、当時の商店街としては少し道幅が広過ぎる位で、15丁目位までで今の買物公園、昔は師団通りと言って旭川駅より第七師団までの通りと2条通りが商店の密集地帯でありました。

師団通りには第一神田館、第二神田館、勧工場等があり、特に2条通りは近郊近在の人々の買物場所となっており、古着屋、古道具屋、飲食店が主体で、あと種々雑多な店が軒を連ねて大変活気のある賑やかな商店街であり、暮から正月にかけて雪で道路が軒位の高さの所へ馬橇で近在の人々が買物に来たものです。

混雑は想像に絶するもので特に正月ともなればその混雑の中を初荷の馬橇が旗を立てて石油缶を叩いて走る様子は壮絶と言うほかありません。
1条通りは主に問屋さんが多く、4条通りは諸官庁、病院が多かったと思います。

昔の大成地区は古い方で宮下通12丁目に旭川郵便局(現在の日新小学校)4条通10丁目右角に旭川警察署、6条通11・12丁目は上川中学校(後に旭川中学校・現在の東高)、6条通14丁目は第二尋常高等小学校(後に大成小学校)、6条15丁目に第4尋常高等小学校(後に朝日小学校)、8条13・14丁目に旭川刑務所、8条14丁目に旭川裁判所、3条11丁目左に旭川市立公設市場、4条11丁目右10に精華女学校、

後に4条12丁目に移転して旭川女子高校が、また3条15丁目の今の銀ビルのところに大黒座と云った時々歌舞伎をする小屋と3条8丁目右10に佐々木座という小屋もありました。

産業・商業活動については当時も道北の拠点であり、私の事業を参考までに中し上げますと、父が硝子器具の製造をしていた関係上東は網走・釧路方面、西は岩見沢・室蘭方面、南は帯広方面、北は稚内・樺太とほとんど全道の7割を活躍の場としており、商品の仕入れについてはほとんど東京、大阪が主であった関係上在庫は東京問屋並で、よく東京の問屋の人に吾々より在庫を持っていると笑われたものです。

これも大口に仕入れをしないと運賃等の面で割高になる為で、これはどの業種にも云えることであります。
時が過ぎるにつれて支那事変、大東亜戦争とすべての点でなんでも窮屈になり、終戦と共に様相が一変し、今迄の考えは駄目、旭川市の変化が始まる。

今迄繁栄していた企業も消え、新しく開業する店等々現在に至る。
これからの世相の移り変りの烈しい時、今迄より一層急変していくように思われ吾々が想像するのも恐しい気がします。

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人生、80年時代
大成老人クラブ会長 柴田 稔夫

大成市民センター内に「いこいの家」があります。これは旭川市における、おおむね満60歳以上の老人に対し、教養の向上、レクリエーション、娯楽のための場を与え、老人の心身の健康増進を図るためもうけられたものです。この運営の効率を上げるため、クラブを組織して活動しています。これが大成老人クラブです。

唄と踊りのクラブ、カラオケクラブ、園芸クラブ、囲碁、将棋、オセロ、麻雀などが行われています。会員は、2百余名で年間延べ総出席者数は2万5千人に及びます。内、大成地区の方々は3分の1程度です。

楽しい催しとしては春の花見、秋の観楓会、忘・新年会、年数回行われる温泉行きや社会見学、祝祭日には必らず催しものがあります。また、社会参加では、明るく美しい街づくりのための花壇づくりや夏まつり、盆踊り、運動会、福祉パレードや赤い羽根街頭募金などに協力し、進んで参加するようにしています。

いまや急速に近づきつつある高齢化社会への対応に迫られており、健全で活力ある社会を実現することが緊急課題です。従来「老人は人生の功労者として敬愛され、安らかな生活保障を」という弱者として保護されてきましたが、老人自身、ただ受身の形であってはなりません。

積極的に地域社会の一員として豊かな知識、経験、日常の余暇を生かして地域社会活動に参画することが望ましく、生きがいづくりに肝要なことです。

老人クラブ活動は、単に自分たち会員のものだけとせず、健康保持につとめ、健康の許す限り、社会奉仕活動を進め、広く老人福祉向上の中柱体となって、ますます強力な団結のもと、市行政との強力な連絡協調を作り上げ、関係団体への働きかけ、理解と協力を得るためにも若い世代と交流を深めるため単位クラブの充実と発展を図ろうとするものです。

大成地区の60歳以上の方々全員が加入し、余暇を楽しみながら多くの社会活動に参加寄与していきたいと思います。そのためにも、新時代への適応を目ざす学習を重ね地域福祉の実情に目を向け、高齢者相互の友愛、互助活動はもとより、地道なボランティア活動をつづけ、期待される福祉の担い手の役割を果す中に生きがいを覚えていきたいと念じています。

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知新小学校甦生のいきさつ
森本 敏夫

校舎の老朽化を理由に最初は中央・大成ともに別々の校舎新築を求め、約3年に及ぶ運動から「両校統合、新築移転」と変り、共に長い歴史と伝統があるだけに合意をみるまでに、いろいろの問題がありました。

昭和43年、当時大成小学校PTA会長の岡田重夫さんが、たまたま旭川刑務所の移転に関連して、早速、その跡地に大成小学校の新築移転を市当局に陳情されたことにより具体的な展開をみました。
一方、中央小学校側では、その以前から当時の中央小学校所在地(現、文化会館の地)に新築することの運動をしていました。

更に一方、市当局では文化会館建設のプランが進んで、その土地、更に予算等の問題もからんで、刑務所跡地に中央・大成両校の統合、新築をし、中央小学校跡地には文化会館建設に、大成小学校跡地は売却してこれらの建設資金にと、方針づけしていました。

都市住民のドーナツ化現象の中で中央・大成の児童数の減少と相侯って統合時、1,009名の児童数は適正規模校と考えられていました。

校名決定について
中央・大成両校とも80年、70年の伝統校であるだけに、それぞれ地域住民との密着は強烈で、それぞれが自分の校名の存続を切望し、仲々困難でした。途中で、然らば、ものごとにおのずから「序」あり、が大成中央小学校では如何?との皮肉まじりの意見も出たことなど想い出されます。

結局は教育大学坂本先生の「温故知新」に基づく「知新」の校名が「温故」は中央・大成の歴史と伝統を意味し「知新」はここで学ぶ子供達の発展を願う意味をこめて、両校連絡会の万場一致で内定をみた次第です。

校章について
広く一般から公募して平田稔さんのデザインが1・2位を独占し、現在の校章がそのまま決定しました。

追 記
中央小学校と大成小学校が統合し知新小学校となって、15年後の今日(昭和60年)、子供達は大成小学校、中央小学校も全く関心すらなく、「知新っ子」として育っている。
その知新も統合時の1,009名から531名に減っているという。都市住民のドーナツ化現象としても、社会は動いている、と痛感します。

当初から大変な困難が予想されましたが、結局は子供達の将来を考える地域の人々の良識が知新小学校を甦生させたものと思います。本当によかったと痛感しています。
中央・大成の統合新築が具体化してから、実に、3年余の歳月を要したことになります。

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17丁目オール商店街のプロフィール
17丁目オール商店街振興組合 理事長 大村 政吉

終戦後引揚、戦災者の更生の施設として今の緑橋通に出来た平和マーケット約5百の露店群と昭和通り、銀座通りに出来た露店を含め約8百店が、昭和29年市の施政方針により強制撤去となり壊滅し、路頭に迷い大混乱となりましたが、緑橋通りにビルを建設するもの、駅前商場に入るもの、護国神社脇に移るもの、転廃業等それぞれ生きる道を求めて分散しました。

その中で行先の決っていない者62名が、昭和29年5月旭川市10条通の興隆寺に集い、オール商店街商業協同組合を組織し市に陳情し、現在地17丁目の市有地大下水を借受け板を渡して通路とし、接続する国鉄用地を譲り受け1人3坪の割合で、タル木で堀立式店舗を造りました。

宗谷本線高架鉄道の出来る20年以前のことで各条には踏切があるので、交通事故が多発の時代で、オール商店街の裏は直ぐ傍をSL機関車の牽引する汽車が通るので、棚の物が落ちる仕末、現在では笑い話ですが、鉄道が宮下通りで大きくカーブするため商店街の4条附近からSL汽関車の汽笛が鳴響きましたが、オール商店街で誕生した赤ちゃんは、汽笛が鴫っても平気身じろぎもしませんが、他所から連れて来た赤ちゃんは、飛び上って驚き泣き出します。
人間の習性には驚異でした。

現在から30数年前の現在地は、大下水と周辺は人通りの途絶えたペンペン草の生える雑草地帯で、その直ぐ傍を国鉄宗谷線が走り、挟猛な悪条件の下で商店街の形成は、営業の成立つはずもなく、然も戦争犠性者で裸一貫の者には財産も、社会的地位も信用も全くゼロ、それでも組合員は挫けることなく、より結束し自作のポスター・チラシを抱え、年に数回毎年東部農村地帯を東奔西走商圏獲得に血の滲むような苦闘の日々でこの間紆余曲折も多くありました。

市並びに関係ご当局のご指導ご支援と東部地域の発展に伴い、昭和32年には4条仮駅が設置され、日本経済の高度成長の波に乗り得たとでも申しましょうか商店街の景気も暫時向上が見られたので、昭和38年商業協同組合から振興組合に組織変更し宗谷線高架鉄道が昭和51年に完成予定となったので、昭和49年組合員の永年あこがれの夢であった商店街の再建設に踏切り、同年12目2日オープンいたしました。

建設に当っては市の幹部と市中銀行のご協力により多額の資金融資をご配慮いただいたのですが、61年8月全組合員が滞りなく完済することが出来ました。
新店舗オープンから3・4年は順調な営業であったが、大型店の進出と昭和48年のオイルショックに因る不況の波をまともに受け、続く不況はいつの日にか日の目を見ることが出来るのか手探ぐりで暗の中を摸索しているような現況でありますが、然し何れの日にか市民に愛され魅力ある活気の充実した商店街になることを信じて止まないものです。

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